マカオでは19世紀半ば、奴隷貿易が盛んでした。
奴隷の館が多かった地域「爛鬼樓(ラングヮイラウ)」エリアは、現在は再開発されておしゃれなお店も多いのですが、昼間でもどことなく暗い雰囲気です。
現在ではほとんど語られない、マカオの歴史の闇を紹介します。
今日の内容を動画にしてYouTubeにアップしていますので、ご覧ください。
【歴史の闇】マカオで栄えた人身売買・禁断の奴隷貿易【閲覧注意】
マカオ人身売買の歴史
秀吉から家康の時代にかけて、キリスト教の弾圧が厳しくなった理由を知っていますか?
西洋人たちが、貿易やキリスト教宣教のかたわら、日本人を奴隷としてヨーロッパへ売り飛ばしていたという事実が関係しています。
1842年、アヘン戦争後香港がイギリスに割譲されました。
これをきっかけに、貿易の中心は香港へ移り、マカオ経済は急速に衰えました。
そこで目を付けたのが、人身売買だったんです。
ヨーロッパの植民地拡大により、多くの労働力が必要とされたためです。
東南アジアの開発や北米・サンフランシスコの金山、南米のプランテーション、カリブ諸国の開発へ、中国人労働者が多数採用されました。
20年の間にマカオから海外へ「出荷」された奴隷の人数は20万人にもおよびました。
30年間で14万人ほどの中国人労働者がキューバへ売られていき、そのほとんどがマカオから輸送された人たちだったと記録が残っています。
奴隷貿易は大変収益性が高く、政府は毎年5倍の関税を手にするようになったんです。
奴隷たちはどうやってマカオへ集められた?
当時、中国の若者の間で東南アジアに行くことが流行っていました。
そのため、甘い言葉で騙されたものも多かったそうです。
また、拉致や誘拐をされた人も少なくなかったと言います。
当然売られていくことを承諾できるはずもないのですが、人身売買の契約書にサインするまで監禁、暴力を受けたそうです。
奴隷船がいっぱいになるだけの人数が集まるまで、数か月マカオにあった「猪仔館」、つまり奴隷の館に閉じ込められました。
過酷な環境、非道な扱い
マカオを出発してからも、厳しい環境は続きます。
奴隷船は地獄のような環境で、「海の上の地獄」だと呼ばれました。
当時マカオからペルーまで船で4か月、キューバまで半年かかったそうです。
船の環境は最悪。
水や食事も満足になく、狭く、暗く、湿度が高く、病気になる人も多かったのです。
空腹、窒息、むち打ちなどの虐待で亡くなる方が全体の3分の1で、病気や死亡すると無慈悲に海に捨てられたと言います。
現地に到着、下船後も家畜のような非道な扱いを受け、水も食料も満足に与えられず、過労や自殺で亡くなる方も絶えない環境だったそうです。
人身売買の禁止
奴隷の館は、幕末1850年代には、マカオに5軒ほどでした。
これが15年後の1860年代には10軒になり、さらに10年ほど経ち1870年代になると、300軒以上がマカオに存在しました。
マカオのほとんどの奴隷の館は、ポルトガル人やスペイン人によって経営されていました。
彼らは中国人マフィアと手を組み、拉致、誘拐、監禁、拷問を行ったのです。
マカオは人身売買により「諸悪の根源」「西洋社会の恥」と呼ばれ、国際社会からの信頼が地に落ちました。
ポルトガル政府により、1873年末には中国人を海外で働かさせることが禁止され、その3か月後には奴隷の館も解散を余儀なくされました。
これにより、黒い歴史は終わりを告げたのでした。
現在のマカオは安全
安心してください。
現在のマカオは、とても安全です。
カジノがあるので治安が悪いんじゃないかとおっしゃる方もおられます。
実は全く逆で、大金を持った人が安心して遊びに来られるように、マカオの治安は最高レベルです。
ニュースで強盗、殺人などの凶悪犯罪を聞くことはほとんどありません。
その代わり、スリはとても多いので、マカオ旅行の際にはくれぐれもお手回り品に気をつけてくださいね。
マカオのガイドブックは地球の歩き方 マカオ 2018~2019がおすすめです。地図が素晴らしい。
以下におすすめのマカオ旅行本を紹介しておきます。
マカオ行ったらこれ食べよう!: 地元っ子、旅のリピーターに聞きました。
CREA Traveller Autumn 2019 (新しさと懐かしさと 香港・マカオ)